元役者のご夫妻が営んでいた、優しく温かいラーメン屋さんの思い出
2017年に店仕舞いをされたこのお店とは本当に不思議なご縁でした。
あれは今から17年も前のこと。
たまたま車で走っている時に「ら~めん行進曲〇〇(まるまる)」と書かれた赤い看板が目に飛び込んできたのです。
こ、これは、SNSで知り合った中田明則さんが「3月30日にオープン」とおっしゃっていた店の名前では!?
あわてて車を停めて、お店の前へ。まだ外装の途中で塗装屋さんがペンキを塗っておられます。
お店の中を覗くと女性がひとりで開店準備中でした。
「あの、すみません」と声をかけると「はい、いらっしゃいませ!」 と朗らかな笑顔で答えて下さった、とても優しそうな方。
それが奥様のさゆりさんで、店長である旦那様は外出中とのこと。
ごていねいにオープン告知のチラシを3枚も下さいました。
初訪問は開店直後を避けて4月に入ってからでしたが、中田さん、奥様、バイトの女性店員さんの皆様から歓待して頂きました♪
店内は白を基調にした明るく清潔な雰囲気。
ナチュラルウッディなテーブルと椅子がさらに優しさと温かさを添えてます。
店内には様々な方からのお祝いの花が一杯で、中田さんのご人徳が伺えます。
メニューはどれも美味しそうなので何にしようか迷ったんですが、チラシでも大きく 謳ってた「白みそら~めん」、これをはずすわけにはいかんでしょってわけで夫はこれをチョイス。
とってもまろやかで、野菜のいいお味がたっぷり出てます。
夫は「チャンポンに近い感覚で、福岡人にもウケる味だと思う。ヘルシーだからお昼に食べても胃もたれしないのでお勧め」と感想を述べてました。
私はチャーハンが好きなので半チャンセットを。ラーメンはとんこつと悩んだ挙句「しょうゆら~めん」をチョイスし ました!
しょうゆら~めんは和風味で、私が今まで食べた鹿児島のラーメンでは初めての感覚でした。
厳選した素材からていねいに出汁をとって作り上げた、まったく嫌味のない美味しさです。
そして注目はチャーシュー!一見固めかな?と思うくらいやや厚めのチャーシューですが、箸をつけたとたん、ほっこりと箸で切れる柔らかさ!「これは?」と驚きながら口に入れると、なんとも味わい深くてとろける美味しさなんですよ!
チャーハンはパラっとしてて、非常にいいお味です!鹿児島ではチャーハンを出すラーメン屋は少ない(2007年当時)ので、これはお店の売りになると思いました♪
SNSでご縁を頂いた際に
「いつか自分の店を持って、Makotoさんに食べに来てもらいたいです」
っておっしゃったその時からまだ1年にもならないのに、こうしてきちんとご自分の夢を実現なさって頑張っておられる中田さんはすごいです!
私達のところに何度もお礼と挨拶に来てくださり、
「どんどん悪いところを言って下さいね。なんか気になったことはありませんか?」
と謙虚に尋ねてこられるその姿勢にも、改めて頭が下がりました。
会計を終えて出て行かれるお客様お一人お一人に、それはそれはていねいに温かくお話をされて、御礼を述べておられる奥様の姿も心を打ちました。
こういうお二人の姿勢が、美味しいラーメンにいっそうの魅力を添えられるのですね。
その後、このご夫妻が以前は俳優をなさっておられたと知り、ますますお二人の人生に興味を惹かれました。
そのあたりは2010年1月公開「ラーメン屋の女房」の「役者の女房からラーメン屋の女房へ ら~めん行進曲○○」さゆりさんのインタビューよりご紹介しましょう。
・旦那様と出会った頃は、どんなお仕事をされていましたか?
さゆりさん「大阪で銀行勤めをしてたんですが、女優になりたいという夢があったんで東京に出てきたんですよ。『よっしゃ、一旗揚げたろう!』みたいな感じで(笑)そしてアルバイトをしながら劇団の養成所めぐりをしてた23歳の頃に、友人から『役者で脚本家の“大中小(だいちゅうしょう)”って人が共演者を探してるんだけど』って誘われて。そのケッタイな名前の脚本家“大中小”さんに会いに行ったら、それが当時の旦那だったんです。でも共演者としては『いいです』って断られたんですけどね(爆)」
(旦那様は東京新社の俳優養成所におられ、その時に『相棒』で有名な寺脇康文さんともご一緒されていたそうです。お店の開店時には寺脇さんからお祝いが届き、そのサインはカウンター上の壁に飾られていました)
・「ラーメン屋の女房」になられたきっかけは?
さゆりさん「当時、旦那は脚本家の水橋文美江さんが率いる【劇団まるまる行進曲】という所に所属してたんです。
でも水橋さんが劇団の解散を決意されまして。それで私もそれを機に役者人生にけじめをつけることを考え出したんです。
旦那も中華料理店でバイトをしながら役者を続けてましたが、最後に先輩の役者さんが主催する舞台に私達二人を立たせて下さって。あ、私のほうがいい役で旦那は端役でしたけどね(爆)二人で共演して、役者人生に幕を下ろしました。
これからは二人の人生劇場の幕を上げようということで、旦那は調理師免許も取ったんです。鹿児島にいる私の両親も『それならば』と結婚を認めてくれました。
その後私の父が入院することになり、1ヵ月後に亡くなりまして。年老いた母を一人で鹿児島に置いておけなくなったので、鹿児島に移ることに旦那も同意してくれたんです。
鹿児島では“大栄ラーメン”というチェーン店に15年ほど勤務してましたが、オーナー会社がラーメン部門を閉める事に決めて、ラーメン部門に勤務してた人は皆『パチンコ屋の店員になるか辞めるか』を迫られたんです。
その際に『いつか、自分たちの店が出来たらいいな』って思ってた夢を叶える時が来たのかもしれない、って思って退職を決断し、その退職金をすべて開店資金にあてて、この店を出したんです。それが2007年3月30日でした」
【ら~めん行進曲〇〇(まるまる)】という店名にはお二人の役者人生への思いが込められていたんですね。
しかし開店後1年半くらいは苦しい状況が続いたそうです。
さゆりさん「どうもお客さんが入って来てくれなくて…なんで?なんで??って思ってました」
なんと奥様は
「この店にはよくない霊がいるんじゃないか」
って疑われたこともあったとか。
さゆりさん「旦那に『あんたの味が悪いわけでもない、私の接客がまずいわけでもない、なのにお客さんが来てくれないのは何が悪いの?そうや!なんかこの店にあるに違いない!!』って(笑)
まぁ、今にして思えば不調な時って何かしら理由をつけたがるんでしょうね。自分達じゃなくて人のせいにしたくなるというか、霊のせいにしたくなるというか(笑)」
・経済的、そして精神的にもきつかったと思いますが、どのようにして乗り越えられましたか。
さゆりさん「数は少ないなかでも、リピーターとして来て下さるお客様がおられたんで、嬉しかったですね。
1回目に来てもらって気に入ってもらったお客さんがまた来てくれた時はすごく嬉しいし、お客さんが来ない時はこのノート(お客様が自由に書き込むことが出来る感想ノート。各テーブルやカウンターにペンと一緒に置いてある)を読み返すんですよ。
皆さんからの言葉を読むとくじけそうになった時もまた元気にさせてもらったし、勇気付けられたんです。本当に数知れずこのノートには救われました」
さゆりさん「正直、もう店をやめようかと思ったこと、何度もありました。でもそんな時にはお店に来てくれるお客様の顔を思い浮かべるんです。そして『この店は自分達だけの店じゃない。お客さまあっての店なんだから、やめてはいけない。頑張らなきゃいけない』って自分の気持ちを奮い立たせてもらいました」
・そんな苦しい時期でしたが、上向きになり始めたのはいつ頃でしたか。
さゆりさん「開店二年目の夏、お盆頃からお客様がどんどん来て下さるようになったんですね。一応開店時にウェイティングチェアーとして折りたたみの椅子を少し用意はしてたんですが『こんな狭い店でこの椅子を使う日なんて来るのかな?』って思ってたんですよ。それが二年目のお盆に初めて使って『これを使う日が来たんだ!待って頂くほどお客様が来られる日がついに来たんだ!』って嬉しかったですねー」
その夏に発売されたのが、柚子胡椒&わさびを入れて味わう和風だし塩味の「ちんたかー(鹿児島弁で“冷たい”)ら~めん」と和風醤油だれの「冷やしつけ麺」でした。
ちんたかーら~めん
冷やしつけ麺
どちらのメニューも何度も何度も試行錯誤を繰り返して出来上がったものでした。
・そしてその秋にTV「どーんと鹿児島」のラーメン特集で紹介されて、大ブレイクされましたね。
さゆりさん「あの時はすごかったですね。店の中が熱気で息苦しくなるほどでしたし『どこからこんなに人が来てくれたの?』って(笑)
もう人が人を呼ぶというか、お客様が入れ替わっても入れ替わってもどこまでも続く、みたいな感じで。お水のコップも全部使いきったから焼酎のグラスになり、それも使ったからビールのグラスになったりって(笑)
丼も洗ってる間がないから、厨房の吊戸棚の下から三段目に閉まってある控えの丼も全部出して、その時に『あぁ、ここまで使う日が来たんだ、お客さんがここまで来て下さったんだ‥‥』って感動しましたね」
お客さんに「ラーメンとはこんなに楽しいものだ」と思ってもらいたいという中田さんの願いを込めて、その後も熱心なメニュー開発は続きました。
Yahoo!の第一回次世代ラーメン決定戦に応募し写真審査を通過した
「焦がしねぎ塩ら~めん(イタリアン風)」
寒い冬にぴったりなあんかけもやしら~めんに、つけ麺のあつもり。
天津麺にまぜまぜモリモリめん、
マーボーつけ麺に焼き麺など、本当に工夫をされてお客様を飽きさせない努力をなさっていました。
Makoto一家が福岡に転居した後も鹿児島に帰省?の折には必ず中田さんのお店に寄らせてもらい、夫は焦がし白味噌ら~めん、
私はちゃんぽん、
息子はとんこつら~めん。
そしてチャーハンとポテトサラダを注文というのが定番でしたね。
このポテトサラダが素朴なんだけどものすごく美味しくて、よくお持ち帰りでも買わせてもらったものでした。
訪問すると中田さんご夫妻はいつもとても笑顔で、特に奥様が(Makotoと同じ関西のノリで)テンポ良くお話されるので笑いが絶えず、お腹を痙攣させながらラーメンを美味しく頂いていました。
でも、お店のほうはだんだんと経営が苦しくなっていっておられたのだと、後になって知りました。
鹿児島では県外からの進出店も増え、自家製麺の店やインパクトのある味わいが売りの店も目立ってきていました。
多彩なメニューで工夫されていた中田さんですが、なかなか難しいものがあったのかもしれません。
また、関東に居られた中田さんのお父様の具合も悪くなられ、さらに同居されている奥様のお母様は介護が必要な状態となりました。お店のことに専念する余裕もなくなっていかれたのです。
中田さんご自身もラーメン屋さんの職業病ともいえる腕の痛みが悪化し、かといって休むわけにもいかず苦痛に耐えながら日々働いておられました。
地元の信用金庫協力のもと、店内の内装を劇場風にアレンジされたり、
TJカゴシマへの掲載やKYT「かごピタ」への出演もありましたが、ついに2017年の2月で店を閉めることを決断されました。
開店十周年まであとほんの少しだったことを思うと、ご夫妻の心中いかばかりかとお察しいたします。
1月末の発表以来、閉店を惜しむお客様が数多く足を運ばれ、なんと閉店当日は麺完売につき昼12時過ぎにて早々に営業終了せざるを得なかったほど。
その日に遠路はるばる東京から来られたお客様もありました。
中田さんご夫妻の演劇仲間だったKさん。
遠く離れてもご夫妻との絆を大切にされていて、この6年前にも鹿児島まで会いに来られたことがありました。
その前日はあの東日本大震災が発生した日で、家の中は家財道具がめちゃくちゃになっていたそうですが「絶対に行く!」と空を飛んで来てくれたのです。
お店では中田さんご夫妻が「東京のKちゃんは大丈夫かな」としきりに心配していたところ、そのKさんが突然お店に現れたので奥様は思わずこんなことを。
「幽霊かと思って本当にびっくりした!」
閉店当日も突然現れてくれたKさんにご夫妻は大感激。
もうラーメンは完売した後でしたが、心づくしのチャーハンをKさんに食べてもらいながら、3人で語り合ったそうです。
Makotoが鹿児島に戻って来れたのは残念ながら閉店から1週間が過ぎた時でした。
もうすでに店内の機器は撤収され、テーブルセットもなくがらんとした空間を、中田さんと息子さんで一生懸命お掃除をされていました。
「Makotoさんと初めて出逢ったのがまだ店を開ける前で、こうして再会できたのが店を閉めた後‥‥なんかすごく不思議なご縁を感じますね」
そうおっしゃった中田さんの表情にはすがすがしいものがおありでした。
「店を続けてきたことは今も後悔はしていません。
最後の最後までMakotoさんをはじめとした自分達のまわりのたくさんの人達がそう思わせてくれたから!
そして、そのことが今の自分の支えになりパワーになっているから。
今はオレも家族全員も意外と気持ちがふりきれています」
Facebookでも中田さんはご自分の気持ちをこう綴っておられました。
「最後にのれんを降ろすとき、開店から苦しいときはいつも
『あと何度、こののれんをかけられるのだろう‥‥』
と思いながらかけていたので、なんだかそのときはすごく寂しい気持ちがこみあげてしまいました。
約10年、つらいこともたくさんあって悔し涙をたくさん流しましたが(歳をとって涙もろくなっただけかも‥‥?)
最後の最後はうれし涙をたくさん流すことが出来ました!!
たくさんの方々に暖かい言葉をかけていただき、そのうえプレゼントまでいただいた方もいて‥‥
営業は自分達の不手際でうまくいかないまま終わってしまいましたが、それ以上に皆様にかけがけのないものをいただいた気がします。
やっぱりこの店をやって本当によかった!!と思わせていただきました。
そして、これを私達のこれからの財産として頑張っていきたいと思います。
皆様、本当にお世話になりありがとうございました!!」
閉店後は老人ホームの調理の仕事をしばらくなさっておられた中田さんでしたが、実は店をやっておられた頃からこんなことを考えておられたのです。
「障がい者の就労支援に関わる仕事をしたいと思っています。息子のことで今まで悔しい思いをしたことが何度かありました。だからこれからの人生はそんな人達のためにちょっとでも力になれる仕事がしたい」
そのお言葉通り2018年秋からは、障がい者就労支援事業所の調理場で利用者の方と一緒にお弁当を作る仕事を始められました。
中高年になってからの転職はとても大変なもの。ましてや個人事業主だった方には、今までとは違った気苦労も多いのではないかと思います。でも、
「これは障がいを持つ、持たないには関係なく、また大人も人子供も関係ないとも思っているんですが、他人が勝手に作った道ではなく、人それぞれ本当に自分のために作った、作ってくれた道‥‥いや橋かな?をゆらゆら揺れながらも楽しく渡っていくべきだなぁって思っています」
こうおっしゃる中田さんは新しい人生の舞台を踏みしめながら、自分の中から生まれてくる台詞や動きをきっと楽しんでおられるのではないでしょうか。
「ら~めん行進曲〇〇(まるまる)」というお店の幕は下りましたが、中田さんご夫妻とそのお店を愛した人たちからのカーテンコールは鳴り止みません。
いつかまた、どこかの劇場でお会いできますように。
(2019年3月初出、2024年10月加筆)
【HPリニューアルに際して付記】
この記事を発表してから5年が経ちました。
今、ら~めん行進曲〇〇(まるまる)の元店主、中田明則さんは新たな舞台で活躍されています!
それは「キッチン おひとつや」という食堂です。
場所は鹿児島市下荒田一丁目にあり、ハローワークのすぐ隣ですね。
こちらは中田さんが5年前に話しておられた、障がい者就労支援A型事業所(一般企業等で就労することが困難な方に対して、雇用契約を結んだ上で就労機会を提供する障害者総合支援法に基づくサービスを行う)が運営されている所で、中田さんは2021年4月から勤務されています。
当初はホール業務に関わる利用者さんの支援をなさっていて、調理そのものはほとんど関わっておられませんでしたが、人員不足もあって厨房も担当されることになったそうです。
そしてなんと、中田さんのラーメン作りの腕前を見込んだ管理者の方から「ラーメンを出してほしい」と依頼され、今年2024年夏、11周年祭記念3日間限定メニューとしてあの、
「ちんたかー(冷たい)ら~めん」
が、15年ぶりの復活を遂げたのです!!
「店の頃のレシピ探しやどうやっていたかを思い出すのが大変でした。あの頃の人達がちょっとでも食べに来てくれたらもう幸せ!」
こんなことをおっしゃっておられた中田さんでしたが、多くの方から好評を頂いたため当初は8月5日から3日間の限定販売のところ、8月27日からしばらくの間再発売されたとか。まさに幕が下りた後の「アンコール」ですね♪
そしてさらには、あのYahoo!の第一回次世代ラーメン決定戦に応募し写真審査を通過した
「焦がしねぎ塩ら~めん(イタリアン風)」
も10月21日から復活!
しかもこちらのメニューは限定ではなく通常メニューとして提供されるそうです!
この先また違うラーメンが登場するかもしれないので、キッチンおひとつやさん情報から目が離せませんね。
この画像を快く提供して下さった肝付卓郎さんを始め、ら~めん行進曲〇〇時代を懐かしむ方々がキッチンおひとつやに来られて「焦がしねぎ塩ら~めん、美味しい!」と喜んで居られるとのこと。
私も鹿児島に飛んでいきたい思いでいっぱいになりました(^^)
中田さんにとって新たなる劇場とも言える「キッチンおひとつや」で、これからも多彩なメニューをどんどん舞台に上げて下さいね!北九州から応援していまーす!