40年…大河の流れに染められた、遠い記憶の物語

2000年1月にどんとが逝ってしまってから、私は強い喪失感と後悔に心を苛まれていた。
1991年1月、どんとと最後に言葉を交わした際に「また、手紙ちょうだい。ほんとにちょうだい。待ってるから」と言ってくれていたのに、その後は手紙をほとんど出せていなかったこと。
仕事が忙しく出張が多かったため、どんとのソロLIVEにはたった1度しか行けなかったこと。
「一期一会」
どんな時もこれが最後かもしれないと考えて相手と接していなければ、後でこんなにも苦しみ悲しむことになるのだと思い知った。
どんとが逝った後、追悼LIVEの開催や未発表音源などのCD発売も行われたが、私はLIVEにも参加せずCDも聴かなかった。それらによって彼の死を思うのがあまりに辛すぎたから。
彼を愛した人々がどんとの曲を演奏し唄うのを観るのも私には苦しかった。
どんとではない人がどんとの歌を唄っている=どんとはもういないのだ、と寂寥感が増すばかりで。
どんとの歌を唄うのが、彼の息子であるラキタ君であっても同じだった。
なまじ似ているだけに、ラキタ君とどんとの違いがはっきり浮き上がってくるから。
どんとの命日と誕生日に、SNSで交流が深い人を対象に思い出を投稿することはあったが、昔の写真を載せたりどんとのエピソードを語るのは最小限に留めていた。
それを語ると彼が亡くなってしまったことを再認識して悲しくなるのと、大事な宝物として自分の中にしまっておきたい事もたくさんあったからだ。
【同志との出逢い~BO GUMBOナイト開催】
それが変ったのは、2022年の秋だった。

らーめん志士さんのお友達で、北九州の黒崎で【創作家庭料理とお酒bocchi(ボッチ)】を営むちぃさんから
「友達にBO GUMBOSのファンの人が居る!」
と、こまっちゃん(愛称)を紹介してもらったのだ。
こまっちゃんは「魚ごっこ」のMVを観てBO GUMBOSの虜になり、当時はどんと推しだったそうだ。
LIVEを観に行った事こそ無いもののその想いは強く深く、私同様にどんとが亡くなったのがショックでしばらく遠ざかっていたとのこと。
その後こまっちゃんは偶然コクーン歌舞伎を観た際に、BO GUMBOSのメンバーだったKYONさん(現:Dr.kyOn)が音楽監督を務めている事を知り、
「うわぁ!KYONさんだぁ!!」
と驚くと共に、プロデューサー兼マルチミュージシャンとして活躍するkyOnさんの大ファンとなった。
以来、忙しい仕事の合間を縫っては全国各地で開催されるkyOnさんのLIVEにできる限り参加されている。
「kyOnさんのLIVEに行くという楽しみがあるから、仕事も頑張れます!!」
彼女はいつも輝くような笑顔で、その思いを私に語ってくれる。
こまっちゃんと話していると長い時を超えて、LIVEから今帰って来たかのような気持ちで私もBO GUMBOSやROSA LUXEMBURGのことを熱く語り合うことができる。
昔一緒にLIVEに行った友人以外には理解してもらえない信じられないようなエピソードも、玉城さんの曲じゃないけれど「不思議だが本当だ」と、こまっちゃんには語ることができた。
以来、こまっちゃんとは2か月に一度くらいに定期的に「BO GUMBOナイト」と題した会を開いて、BO GUMBOS&ROSA LUXEMBURGへの思いを楽しく語り合うようになった。
また嬉しいことに、このご縁をくれたbocchiのちぃさんが美味しい料理とお酒、それに優しく温かい気遣いを毎回してくれる。




店のBGMにはBO GUMBOSの曲をかけてくれたりと(おかげで私とこまっちゃんはイントロ当てクイズ状態、しかも1秒で即答)、すごく居心地のいい空間で私達二人の話は尽きない。
さらにはbocchiに80年代後半~90年代バンドブーム時のファンのお客さんがよく来られるという事で、私も当時のロック雑誌を貸本屋蔦重のように持ち込んで、過ぎ去りし日の熱をお客様方とも分かち合わせてもらっている。いや本当にちぃさんは縁結びの神様だと思う。まことにありがた山の寒がらす(合掌)。
こまっちゃんとの出逢いのおかげで、氷のように凍っていた私の気持ちも徐々に溶けだしていった。
どんと亡き後に発売されたCDやDVDなども遅ればせながら購入し、切なくも懐かしい気持ちで聴いたり観たりすることも出来るようになった。
そんな中で、玉城さんプロデュースのCD「ローザ・ルクセンブルグ お蔵だし」ブックレットの文章が心に刺さった。
1985年1月24日、大阪バーボンハウスのLIVEで演奏された「さわるだけのおっぱい」について。

玉城「カセットの最後に入ってた音源で、テープが足らず途中で終わってます。やむなくフェイドアウト。惜しい。」
実は私は、この時のLIVEテープを持っていた。
音質はややこもってはいるものの、「さわるだけのおっぱい」はフルバージョンで、その次のラスト演奏曲になる「くちゃ」(どんとはMCで『ひらがなで“くちゃ”と書きます。カタカナで書いたら間違い!』と当時言っていたのであえてひらがな表記)もフルバージョン収録。
また、「さわるだけのおっぱい」が初披露された1984年11月20日、同じく大阪バーボンハウスのLIVEテープも持っていたので、
“ これは玉城さんに渡すべきものだ ”
そう思うようになった。
さらに永井さんもブックレットで

永井「おれ『大河ドラマ』欲しかったなー。はじめて自分で作った曲。」
永井さんが初めてリードヴォーカルで唄った自作の「大河ドラマ」。この曲の初披露LIVEであった1984年10月18日の京都磔磔のLIVEテープも持っていた。
また、永井さんの自作2曲目「大きなたまご」のおそらく初披露LIVE、1985年4月22日の京都CBGBの音源も持っていた。
(残念ながらこの4月22日CBGBのLIVEテープは、古い上に120分タイプでテープが薄かったため、再生に耐え切れずテープが伸び切ってしまい、ほんの一部しかデジタル音源化できなかった。だが『大きなたまご』は奇跡的にデジタル音源化できた)
“「大河ドラマ」「大きなたまご」のLIVE音源も永井さんに渡すべきだ ”
【贈り物、空の向こうから】
玉城さんと永井さんに昔の音源を渡す──そう決心したものの、私は基本アナログ人間なのでカセットテープをデジタル音源化する知識も技術も持ち合わせてはいなかった。
それでも「石に立つ矢」の例えのごとく、機材をそろえ手順を習得し数ヶ月をかけて編集も行い、玉城さんと永井さんそれぞれ用にセレクトしたCDを作成した。
アルバムタイトルは「遠い昔の国から」。
どんとが「自分のこと」を歌っていると言った曲「カーニバル」の歌詞から取った。もちろん字体もどんとの直筆文字を元にした。

永井さん用と玉城さん用Vol.2の表写真はメジャーデビュー前にLIVEハウスで配っていた、当時のIマネージャーさんが作成されていたLIVEスケジュールチラシから。
玉城さん用vol.1(上段真ん中)の表写真は、ヨロシタミュージックに所属した事とヨーロッパ帰国LIVEのお知らせDMに使われていたもの。
余談ではあるが、この写真構図はある企画映像の一部でもあった。
ことのは用-1024x787.jpg)
何の企画かというと、1984年の夏に「ROSA LUXEMBURG主演の映画を作る」という話が持ち上がっていて、そのプロモーションに使われていた映像の一場面である。
映画のタイトルは「ジュンカ」で、ドラマーの三原さんに「香純(かすみ)」という名の妹がいるという設定であった。
映画の中で三原さんが儲け話をメンバーに持ちかけるが相手にされず、どんとの頭を叩いて訴えるものの、どんとは苦笑して頭をかいている、という場面である。BGMは「毬絵」だった。
京都の自主映画上映グループのツカモト監督がメガホンを取る予定と聞いていたが、メジャーデビューに伴ってメンバーが関東に移ってしまったこともあり、映画は作られることなく終わった。このプロモ動画だけでもどこかに残っていないものだろうか。
「遠い昔の国から」のCDに話を戻そう。
CDケースを開くと、1984年12月31日の大晦日年越しLIVE「にっぽんのおめでた」の写真。
京都CBGBで行われたこのオールナイトLIVEは2部構成で、第1部はメイクや衣装も派手だったが第2部は素顔で私服のメンバー。私は素顔のどんとが大好きなので、内部はこの時の写真で統一した。
どんとは最初クラーク・ケントのような黒縁の伊達メガネをかけて出て来て、当時付き合っていた彼女のピアノ伴奏でスタイル・カウンシルの「My Ever Changing Moods」を熱唱していた。

上の2つが玉城さん用CD、一番下が永井さん用CD。
曲目リストの裏にも、私自身が当時撮影した写真をレイアウトした。



1984年同志社大学 学生会館ホールのコンサートから1991年のKIOTO AGA FESTIVALまで、当時の思いを詰め込んで作った画像集。ポケットカメラで撮ったものが多く画像は荒いが、忘れられない写真ばかりである。
この音源を玉城さんと永井さんに渡すと決めたのには、もう一つ理由があった。
私事ではあるがMakotoの夫は1957年生まれ。偶然にも岡地さん、KyOnさんと同じ年の生まれで1958年3月生まれの玉城さんとも同学年になる。
その夫が2023年の秋に脳梗塞を発症し、緊急入院したのだ。奇跡的に後遺症も軽く仕事にも復帰できたが、高齢者である夫の身体はいつ何があってもおかしくないのだと痛感した。
夫と同学年の玉城さん、そして永井さんもすでに還暦を過ぎておられる。
どんとだって37歳の若さで突然逝ってしまったのだから、縁起でもない話だが今渡さなければ次は無いかもしれないのだ。どんとが逝った時のような後悔は二度としたくないと思った。
かくして私はどんと没後24年目にして初めて「HOTMOTTO GUMBO」磔磔LIVEに参加し、お二人にこのCDを渡すことを心に決めた。
もしもどんとが生きていたならば、彼にも渡せたらどんなによかっただろうと思いながら。
【そうさみんな戻ってく 時間のないとこへ】
そして時は流れ、7月7日にわが青春の街・京都に私は帰って来た。


1980年代の磔磔しか知らなかった私は、時を経た今の磔磔を不思議な気持ちで眺めていた。

こまっちゃんと開場前に会って今のシステムを教えてもらい、私は左前方の玉城さんサイドの席へ。たまたま座った場所が実は2階楽屋からの花道沿いで、入退場するメンバーとハイタッチが出来たのはラッキーだった。
グラサンズ、THE HillAndon、ザクロズの方々も(時にはkyOnさんや玉城さんをお招きして)ポケットの中・遠き山々・在中国的少年・魚ごっこ・少女の夢を演奏してくれたが、不思議なくらい何の抵抗感も無く、イントロが始まるなり歓喜の声を上げていた私が居た。
ついに大トリ・ボガンボローザの出番となり、kyOnさんが
「5メートルの男が見たいか?5メートルの男がやって来る!HOTMOTTOな男がやって来る!Dr.Tosh!!」
と永井さんをコールした。

入場してきた永井さんは磔磔の観客、そして配信を視聴している方々にも熱い感謝の言葉を述べ、さらにこう続けた。
「ただ俺が言いたいのは、どんな物語にも話の続きがあるっていう事です。その続きは、それぞれご自分でCREATEしていくしかない。どんな話にしたいんやぁ、みんな!どんな話にしたいんや?俺たちはどの物語にも『愛ある世界』を奏でていたいんだぁ。そのためには、すべてをLOVE SONGにしてみようじゃないか。まずはこの曲からお届けしましょう。
【泥んこ道を二人で】!」
感極まった私はこの時、とめどなく嬉し涙を流していた。
そして「ギターマン」で赤い髪の鬘を付けた井垣宏章さんが唄うのを観た時、井垣さんにどんとが降臨していたのを感じた。
扮装で似せようとしているのではなく、ほんの一瞬、また一瞬に井垣さんの顔がどんとに見えるのだ。1984年のステージで元気に動き踊る、おもちゃのようなどんとの身体も確かにそこにあった。
その後も「Zulu Rice Shop(別名:久富米店。実際に行ったことがある私には特別な思いのある曲)」、玉ちゃんの愛あふれる「だけどジュリー」。
ここからはヒートアップして「アイスクリン」「バカボンの国のポンパラスの種」
玉城さんのギターテクがもう最高すぎる!
40年経っても変わらないどころか「どこまで冴えるんや?!」と驚嘆するばかりだった。
「ダイナマイトに火をつけろ!」
これはもう若き日のkyOnさんが長い髪をなびかせて、これまた長い足でステージを動き回りながら「ギター、キョン!」と叫ぶどんとに合わせてジャーン!と弦をかき鳴らして右手を高く差し上げる姿までも蘇ってくる。そして玉城さんとのツインギターなのも心が震えた。
そして永井さんが唄う、どんとがソロになってから作った曲「おめでとう」。

「長い冬が終わって 目も眩むほどのまぶしい光に包まれて 君は泣いていた でももう怖がることなんて 何もないんだ ほんとによく来たね おめでとう」
この歌詞に涙があふれて止まらなくなった。
長い時を経て、今ここに来て本当によかったと心底思えたのだ。

(磔磔LIVE写真は撮影が許されているアンコール時に撮影したもの)
【生きてる人でも死んだ人でも逢いたい も一度ここに集まって】
そしてLIVE終了後には玉城さんにお時間を頂き、無事CDをお渡しできた。
玉城さんとお話しするのは40年ぶりだったが、お人柄は全く変わっていなかった。
ご自身の昔の写真をご覧になって「カッコイイ!!」と自らおっしゃるお茶目な方。
「はい!カッコ良いです」と私も笑って即答。
CBGBの写真ではどんとのギター(リッケンバッカー)を見るなり
「ネック折れたヤツ!」
と声を上げて笑われた。ネックが折れたのはこの時のLIVEではなかったものの、そういう楽しい思い出がよみがえられたのは私としても嬉しかった。
「さわるだけのおっぱい」初披露LIVEについては「2部もあったの?」と驚かれ、
「音源は他にもまだあるので『お蔵だし』のvol.5も出せますよ」
と私が言うと、きょとんとしたお顔でこう答えられた。
「vol.5、出してるよ」
「CD3枚とDVD1枚ですから、vol.4までですよ?」
「あれ?そうだったっけ?」
──やっぱり“お茶目な玉ちゃん”でした。

その後、ありがたいことに玉城さん自ら永井さんを呼んで来て下さり、永井さんにもCDをお渡しすることが出来た。
CDジャケットを見て「これ、どんと?」と何度もお尋ねになり、CD曲目リストの「大河ドラマ」の文字を嬉しそうに見つめられ、
「この『大河ドラマ』は僕が初めて作った曲やけど、どこにも音が残ってなくて失われた曲やったんや。すごい嬉しい」
と大変喜んで下さった。

とても背の高い永井さんが小柄な私に合わせて背をかがめて話して下さる、その優しさも心に沁みた。
「私はどんとがソロになってから1回しかLIVEを観に行くことができなかったんです。仕事が凄く忙しくて全国各地に出張していて。でもその時は“いつかまた会える”って思ってたんです。だけど、どんとが急に逝ってしまって…なんでもっと観に行かなかったんだ!って、後悔しかなくって。HOTMOTTOGUMBOもつらくてずっと観に行けなくて」
こんなことを話して思わず涙が出てしまった私に、永井さんは
「僕らもこのイベントな、『どんとを想ってしんみりする』いう感じの時もあった。せやけど10年経って、これからは新しいページをめくろう、て。どんな物語にも話の続きがある。その続きは自分で作れるんや」
と優しく言って下さった。
「そうですね。ほんと、今までのことがあったから、今日につながってるんですよね」
「こうして『大河ドラマ』を届けに来てくれた。ほんまにありがとう。
これは貴女の作品や。見事や」
と、最高のお褒めの言葉までも。
そして「どんとにも言うとくわ」と何度も握手をして下さったのだ。

その後、岡地さんには昔どんとが拾得で唄った BREAKDOWNの「I’ve Been a Goodthing For You」やメジャーデビュー前のBO GUMBOSのLIVE音源を、kyOnさんにも同じくメジャーデビュー前のBO GUMBOSのLIVE音源をお渡しし、こまっちゃんとHOTMOTTOGUMBOの余韻を楽しみながら深夜の京都を歩いた。
磔磔、拾得、BIG-BANG、CBGB、京大西部講堂、そして同志社大学学生会館ホール、京都精華大学五月祭、京都伝統工芸博イベント、京都府立文化芸術会館YMF京都大会…1984年は京都だけでもこれだけの会場をROSA LUXEMBURGを観たくて通い詰めていた私の青春時代。

時が移りCBGB、BIG-BANGはとうの昔に閉店。



京大軽音楽部があった俱楽部ハウスも燃えてしまった。

どんとが住んでいた学生下宿「龍山荘」も建て替えられて今はもう無い。
ROSA LUXEMBURGの曲「イヨマンテの夜」の舞台でもある鴨川(賀茂川)と高野川の間にある三角州には、1993年にどんとの大好きな亀をかたどった飛び石が配置された。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
何十年もの時の流れに染められた遠い記憶の物語は、この夏セピア色の中に鮮やかな景色を見せてくれた。
それはまるで虹の光のようでもあった。

1984年から2024年に架かった虹の橋が、新たな物語の続きへと私を誘ってくれたのだ。
ありがとう、どんと。
この記事の前編はこちら↓
どんと sing a song and a soul
~どんととの出逢いから別れ~
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