「嫁さんと二人で店をやろう!」ラーメン屋を志すことにした別所さんでしたが…?志士物語PART2
【失敗と改良に費やした六年間】
本やネットで調べたスープの作り方をあれこれと試しては失敗し、改良してはまた失敗とひたすら研究を続ける日々が続いていました。
やっとスープがスープらしくなってきた頃、今度はタレとの闘いが始まったのです。
恵さん「寸胴で作ったスープをタッパーに小分けにして冷凍して、出勤前に一杯分ずつ解凍しては工夫したタレを使ってラーメン作って、毎朝ラーメン食べてから仕事に行ってたんです」
別所さん「油ひとつにしても香味油がいいんか、練り油がいいんかとかいろんなものを試しては食べてました。誰にも教えてもらわんかったから失敗→改良→また失敗。この繰り返しやったけど、そうやって努力を続けてたのが結果的にはよかったと思う」
「失敗したのではない、1万回うまくゆかない方法を見つけたのだ」
電球の発明で1万回もの失敗を繰り返した際にエジソンが言った言葉を思い出しました。
別所さんが自分の求めるラーメンの味を確立するまでに費やした時間は、なんと6年に及んだのです。
恵さん「この人はもっと早くに実家の仕事辞めてラーメン屋を始めたかったんやけど、お義父さんがずっと反対してて。
『メグ(奥様)とタイキ(息子さん)を路頭に迷わすんか!!』
って6年の間、会社を辞めることも許してもらえなかったんです。
でもお義父さんが反対してくれてた間に小さかった息子が育っていって、店始める時には小学2年生で『おばあちゃんとこ行っとき』とかできるようになってた。
結果的にお義父さんが反対してくれたおかげで、私も一緒に店を手伝えるベストなタイミングでオープンすることができたんです」
別所さんのお父様は反対はしていたものの、醤油タレ作りに悩んでいた時に「この刺身醤油うまいぞ」と美味しい醤油を分けてくれたりもしました。
「改良に改良を重ねたタレもやっとこれで完成して。もうこれ以上はいじりきらん。怖くて(笑)」
お父様が教えてくれた醤油会社の醤油を使って「志士醤油(黒志士)らーめん」の味が完成されたのですから、お父様は違う形での応援をずっとして下さっていたのかもしれません。
そんなお父様もついに折れて、実家の仕事を昼間は続けることを条件にラーメン屋を開業することを許してくれました。
2009年の春、小倉北区中井2丁目に夜のみ営業のラーメン屋さん
「らーめん志士」がついにオープン。
その日は奇しくも婚姻届を出した日と同じ、4月4日でした。
そう、44(志士)の日だったのです。
【わずか5坪、壁に向かって座る7席しかない店】
別所さん「最初の店は『なんでこんな所で商売始めた?』って皆から言われるようなとこでした。とにかく狭い。しかも夜しかやってないし、なんで?なんで?と言われまくりの店でしたね(笑)」
現在は「初恋花」という花屋さんになっている旧店舗をMakotoも拝見しましたが、ここでラーメン屋さんをやっていたとは正直信じられませんでした。
店の戸を開けたら右側に3席、左側に4席、どっちも壁に向かって座る席があるだけ。大柄な人だと反対側のお客さんに背中が当たってしまいそうなほど狭かったそうです。
白濁豚骨王国の北九州で醤油ラーメンで勝負しようという意気込みも、当初はなかなか理解されませんでした。
お客さんが全然来なくて、やっと一人入ってきてくれたと思ったら
「豚骨ラーメン無いんか?ならええわ!」
と、すぐ出て行ってしまわれることもよくあったそうです。
別所さん「なぜつぶれなかったか?なぜメンタルが持ったのか?と言うと、開店してから半年はまだ親の会社に勤めてたんで給料もらえてたんです。昼間は印刷会社の仕事、夜はラーメン屋と身体はすごくきつかったけど、とりあえず収入はあるから妻子を路頭に迷わすことはない。
それに親父から反対され続けた6年の間、ずっと時間をかけて自分のラーメンを探求してたから、豚骨を求めるお客さんが食べずに出て行ってしまってもブレることはなかったですね」
そんな日々の中でも、志士さんの醤油ラーメンの素晴らしさをわかる人が徐々に増えて来て、開店半年後の11月11日からはついに会社を辞めて昼の営業も始められました。
もう後戻りはできません。「らーめん志士」の細い一本道をひたすらに歩き続けた別所さん夫妻でした。
そして開店2年目には「声かけてもらえて本当にラッキーだった」と別所さんが言うあのイベントに参加し、らーめん志士さんの名を全北九州に知らしめることになったのです。
そう、それは
北九州ラーメン王座選手権。
当時はまだ北九州ラーメンフェスティバルという名前でした。
(志士道 ~ らーめん志士のものがたり 其の三 ~ へ続く )
(2019年2月初出、2024年10月加筆)