どんと sing a song and a soul

2000年1月に虹となったロックンロールアーティスト・どんとの想い出

「これは論文などというものではないでしょう。
 例えるなら長い恋文のようなものです。

 かつて貴方が泣きたくなるほどの優しさをこめて、幼すぎる私に与えてくれた数限りない贈り物に対する、今の私ができる精一杯のお返しなのです。

 ずいぶん遅れてしまったけれど、その代わりたくさんのお土産も一緒につけて、あの冬の日に伝えきれなかった言葉達を今、貴方に贈ります。

 貴方は笑ってくださるでしょうか。

 それともあの夏の日のように『あんた、まめやねぇ』って目を丸くなさるでしょうか。

 その時の貴方の顔が、この1年間ずっと楽しみでした」

(卒業論文『Don’t sing a song~久富隆司論~』前文より)

2000年1月27日。ハワイで突然どんとはこの世を去った。
2月に彼の故郷で行われた通夜の席で、彼の遺影を目の当たりにしても信じられない気持ちで一杯だったけれど、今なおこの世のどこかでギターを抱えて歌っているんじゃないかと思ってしまう。
YouTubeやInstagramなどのおかげで、昔の彼の画像や動画を生きていた当時よりも多く見ることが出来るせいかもしれない。
私も20回目の命日(※初投稿:2020年1月27日)をひとつの大きな区切りとして、彼のことをここに記しておきたいと思う。



【京都1984~邂逅~】

彼を初めて知ったのは1984年。
YMOが好きだった私は細野晴臣と矢野顕子が審査員をするというNHKのヤング・ミュージック・フェスティバルというコンテスト番組をたまたま観ていた。
そこで京都代表の「ROSA LUXEMBURG(ローザ・ルクセンブルグ)」というバンドが登場した瞬間に、私の世界は変わったのだ。

卓越したギターテクニックで始まる「在中国的少年」という曲が流れ出し、少し遅れてヴォーカリストが飛ぶように現れた。
赤い人民服に京劇風のメイク、髪飾り。手には扇を持ち踊りまわり叫び歌う。
エンディングには自分でポケットから紙吹雪を取り出しぱっと撒き散らす。
音楽的要素・視覚的要素の両面で他のバンドを圧倒、ものすごいインパクトを残した。

当然、彼らは優勝。
その授賞式の際にもヴォーカリストはバンドメンバーに賞を受け取る役割を譲り、自らは嫣然と微笑み扇でぱたぱたと自分を扇いでいた。
大胆不敵さに私の心はすっかり奪われ、以後「ROSA LUXEMBURG」という名は忘れられないものになった。

PELICAN CLUB(1984年)


約一ヵ月後にまたも運命は訪れた。坂本龍一がDJを担当していたNHK「サウンド・ストリート」を聴いていた時に、突然坂本教授が語りだした。

「NHKのヤング・ミュージック・フェスティバルというコンテストがあって、審査員が細野晴臣と矢野顕子だったんですが、それに京大生のバンドで『ROSA LUXEMBURG』というのが出て、えらいよかった。とにかくインパクトがすごかった。2位になったバンドが怒ってたという。『なんで俺たちが二位なんだ?!』って文句言った。とんでもない野郎だな(笑)とにかくよかったと。リクエストがものすごく多いので、これをかけます。タイトルは『在中国的少年』」

教授は矢野顕子の曲「在広東少年」のタイトルにかけているのだろうともいい、最後に「ROSA LUXEMBURG、これは、イイです!」と強調していた。
あわてて録音したそのラジオ音声を繰り返し聴き、ローザの虜になっていった。

その後、彼らが同志社大学学館ホールで6月2日にワンマンコンサートを開くという情報を入手し、初めて生の彼らを観る機会を得た。


そこで演奏された曲を聴いて、ファンキーでダンサブルでありながらも、一貫して謳われているのはパンクなんだなと初めて知った。特にその歌詞の世界に惹かれた。刺激的で煽動的なダブル・トリプルミーニング。
そしてやはり私の心を捉えて離さなかったのが、ヴォーカリストの魅力だった。

ピエロの扮装で現れた彼はなんとも優雅でシニカルで、ユーモアとウィットにあふれるMC。アマチュアでありながら600人以上の観客を向こうに回し、その何倍ものパワーで歌い踊り観客を鼓舞する‥‥。

アンコールでは赤い人民服に身を包み、大きな紅の旗を振りかざしながら現れ、かの「在中国的少年」を熱唱した。

観客の「ローザ!ローザ!ローザ!」というコールはいつまでも鳴り止まなかった。

  同志社大学コンサートで発売された3曲入りソノシート「在中国的少年」「アイスクリーム」「SALT」




その次にあった京都精華大学のイベントで、私はステージ上の彼に花束を渡した。
すると彼は「あ!ありがとう」と丁寧に答え、次の曲が始まるまでの長いMCの間、ずっとその花束を両手に大事そうに持っててくれ、また途中で上着を脱ぐ時も片手に持ち替えながら手放さなかった。
そして曲が始まる直前になって、アンプの上にそっと花束を置いてくれた。
その姿を見て「ものすごく気遣いのある優しいひとなんだな」と彼への思いが深まった。

そんな彼への思いを形にしたくなって、私は彼の絵を描きだした。

そして大阪のLIVEスタジオでその絵を渡した時が、彼との交流の始まりだった。

どんと「うわぁ~上手やなぁ。(自分は)こんなええことないで~(笑)」

絵を見て照れ笑いを浮かべるどんと。似顔絵の裏に私が書いていたメッセージを見つけると、

どんと「ん?なになに。『おもちゃのように元気などんとが好きです』、『玉城さんに“お前音痴や”って言われて落ち込んだどんとが好きです』…」

Makoto「あ!今、読まないで!!

恥ずかしくなって止める私にどんとは笑いながら「後で読むわ」と絵を表返し、頭を下げてくれてから楽屋へ戻って行った。



その翌月、同じ場所で行われたLIVEでとんでもないことが起こったのである。

「イヨマンテの夜」という曲の中で、どんとが私の名前を入れて歌ったのだ。

「Makoちゃん、パンツが見えてるよ」と。

え?え?ええええ?!

その瞬間、私は化石の様に固まってしまった。
このLIVEスタジオは客席とステージの段差がなく、最前列の私達はいわゆる「体育座り」でひざを抱えて床に座って観ていたのである。その時私はロングスカートを穿いていたのだが、どんとの目には私の下着が足の間から見えていたらしい…。

この時はあまりの恥ずかしさ、また“聞き間違いかも知れない”とも思ったので、LIVE後にどんとの方から「あ、この間はどうも」と来てくれた時に私からその事に触れることができず、気を反らすように二枚目の似顔絵を渡した。

どんと「え~また描いて来てくれたの!どうやって描くの?でも、すごい美化してへん?(笑)」
Makoto「嫌ですか」
どんと「いや、嬉しいけど(笑)いっぱいためて画集にするわ」

帰宅して録音したLIVEテープ(当時はメジャーデビュー前でもあり、観客がカセットデッキを持参してLIVEを録音するのも普通だった)を再生すると、たしかに「Makoちゃん、パンツが見えてるよ」と歌われていた…純真無垢な女子高校生になんてことしてくれるんやほんまにもう(涙)

この件については後日、京都のLIVEでどんとに「あの…曲の中で、Makoちゃんて出しましたか?」と恥ずかしさをこらえて確認すると、どんとはニヤッと笑って「出すこともある」…再び赤面して何も言えなくなった私…。
その後、この曲にはどんとが当時付き合っていた彼女の名前も出るようになった。


それから大阪や京都のLIVEを観に行く際には、終演後にどんとに絵を渡して話をしたりするのが恒例となった。
私の幼馴染であり親友はドラムの三原重夫さんのファンに、高校の同級生はギターの玉城宏志さんのファンになり、連れ立ってLIVEに行くのが楽しみになっていた。
ちなみに当時、ファンの中で「一番カッコいい」と人気が高かったのはベースの永井利充さんだった。
そのことをどんとに言うと「いやぁ、やっぱり俺よ!数だけで言うたら俺が一番」と返されたが。

どんとは私を見つけると「やぁ、イラストレーター!」と声をかけてくれ、絵を見せた時の感想は

「美化しすぎだぞこれはー!」
「こ、これはどっかの美少年やでー」

と毎回笑いながら言われるのがほぼお約束。
また、玉城さんとどんとが二人揃った絵を描いた時は、

「玉ちゃんが似てない。これやったら俺の方が似とるで」

「もっと(メンバーの)みんなも入れて描いてほしい。今回玉ちゃんも入ってたでしょ。あんな風にみんなちょこちょこ入れてって」

とリクエストをくれることもあった。

バンド名の由来となったポーランド人の革命家、ローザ・ルクセンブルク本人の考え方がどんとにとても似ているのではないかと問えば、

「本多勝一って人知ってる?京大の農学部を出た人で、動物とか自然とかすごい好きな人でね。ローザも鳥とか花とかむちゃくちゃ好きな人やねん。だから僕よりも本多さんとローザは似てるんやないかとひそかに思うとる」

と、新聞記者の本多勝一氏のことを教えてくれたこともあった。

受験を控えていた私に

「受験勉強に専念するとか、そういう時間を過ごしておくというのはとてもいいこと」

と、意外とも思える言葉をかけてくれ、どんと自身も

「東大いけるもんやったらいっとった」

と言ったので、京大のアンダーグラウンドな雰囲気に憧れて断然京大を選んだと思っていた私は驚いたものだった。

常に意外性を持ち、鋭さとおおらかさ、大胆さと繊細さ、そして明るさとシャイな部分を併せ持つ、何とも言えない魅力に満ちた人。

彼が作った反体制的歌詞や宗教の勧誘批判なども、彼ならではの頭の良さと諧謔により単なる否定ではなく、聴く者をハッとさせる気づきとクスッと笑わせるユーモアに満ちた深いものだった。

隣のばあさん死んでても
誰も気づかないくせに
眼鏡のじいさん死んだなら一億大騒ぎ
見えない爆弾が空から来てる
名前を書いたら来ないのかい

(生まれいづる悩み)


おじさん夜中に毎日ご苦労さん
だけどね私は貴方が嫌いです
どうして真夏にネクタイ締めてるの
汗水流して皆に嫌われて
可哀想だと思うけれど
私にゃ私の生き方があるのよ

(ストリートファイティングマン)


ゆうべのテレビがね
もううるさくて
急いでどこかに逃げろと騒いでた
扉を開けたらね
もう驚いた
皆が逃げてゆく
テレビが騒いだだけなのに

(日本沈没)

私には彼の作る歌詞が、世の中の当たり前や常識と思われていることに常に懐疑の目を向け、惑わされず自分で考え行動することの大切さを訴えているように聞こえた。
ただそれを直接訴えるのではなく、含意や“見立て”などで表現することも多かったので、意味がわからないというファンも少なくなかった。

私が「SALT」「まりえ」の歌詞について、

「SALTの“君”やまりえの“願い事”は誰かに対してではなく、どんと自身へ向けての言葉に聞こえる」

そう言った時、彼は「えへへへへ」と恥ずかしそうに笑った。

「笑ったのは、嬉しいから笑ったのよ」‥‥。

彼の歌について私の感じた事を伝えたら、彼の思っていたことと合っているところもあれば違っているところもあった。
でもそうしたやりとりをしているなかで、“同じ”と“違う”を混ぜ合わせた新たな思いが生まれたことも感じた。

伝わる・伝わらないというだけではなく、投げかけが相手によってどう変化してゆくのか。それがまた自分にフィードバックされることで、自分でも思いもよらぬ変化が起きて、さらには進化につながる。
自分の思いをどこかで誰かが受け止め、投げ返してくれたり、または別の人に対して表現することで思いがどんどん大きく広がってゆく。そんなことを彼は願っていたと私は思った。


「たとえば、僕が音楽を通じて君に何かをあげたとしたら、そしたら今度は君が、絵でも文章でもなんでもいい、何かを通じて僕を含める一般の人々に何かをあげる、そうやってお互いに刺激を与え合って、影響しあえるようになれたら、最高やね」

彼が私に語ってくれた言葉や、


送ってくれた手紙の文章はその後の私の人生を決めた。




【大阪1989~感謝を込めて~】

ローザがメジャーデビューし、やがて分裂から解散へ向かい、BO GUMBOSとして新たなスタートを切ってから、彼の作る歌詞はローザ時代の屈折を越えた明確でパワフルなメッセージソングとなっていった。

だから心ある人よ
この世の真求める人よ
殺される前にひと暴れするのさ
こんな社会につばを吐け!
ダイナマイトに火をつけろ!!

(ダイナマイトに火をつけろ!)

やわな身体で何ができる?
強くなろう
もううじうじするな!
もらえるものは何もかも
ポケットの中にねじこんで
自分ひとりが味方だぜ
楽しくやらんかい

(ポケットの中)

彼の歌詞にこめた魂をずっと感じてきた私は、大学の卒論テーマに彼を選んで芸術論文として書き出した。
いや、むしろ彼の論文を書きたかったから、それができる大学の学科を選んだのだ。

しかし論文を書き進めるうち、インディーズ時代の「非国民のススメ」に代表される反体制歌詞を記述することについて、教授から反対された。
長崎市長の銃撃事件もあったので「学生の論文といえど誰がどこで見るかわからない」と心配されたのである。

私自身は彼の歌詞の変遷を表すためには記述は不可欠と思ったが、作詞者であるどんとに迷惑がかかってはと思うと躊躇した。
そこで思い切って彼に手紙でこのことを伝えてみた。

ほどなく彼からコンサートの招待状と共に返事をもらった。

彼の励ましを受けて書き上げた私の卒論は優秀作品に選ばれた。どんとにもその事を手紙で知らせ、1990年2月7日大阪厚生年金会館大ホールの楽屋に製本した論文を渡しに行った。

おお~!あ、ここ土足いいのよ。入って入って。さぁさ、優秀な作品を(笑)」

と、大喜びで迎え入れてくれた。

どんとの似顔絵を表紙にした本を見た瞬間、

「おおっ!うわおお!!」

とのけぞって声を上げ、本を開いて昔の自分の写真が目に入るやいなや

「うわ!恥ずかしっ!あ、後で読むわ~

と照れながら、ものすごく喜んでくれた。

こんなにはしゃいだどんとを見るのは初めてで、すごく驚きもしたが本当に嬉しかった。
Kyonさんと岡地さんが「卒業論文・久富隆司!」と冷やかしてくれたのもよく覚えている。

大学を卒業した私は繊維商社にデザイナーとして入社し、有名人気番組の特製グッズや全国通販商品のデザインを手がけるなど忙しい日々を過ごしていた。

その後建築業界に転職してからは全国への出張なども増え、BO GUMBOSを解散したどんとのソロLIVEを観る事が出来たのは、1995年8月2日の大阪ファーストワンマンショーが最初で最後となってしまったのが悔やまれる。
 
わずか5年もせずに彼が逝ってしまうなんて、その時にわかろうはずもなかったのだ。




私はその日の朝、いつものように新聞を開いてニュースなどに目を通そうとした。
するとなぜか、普段目もくれない下の方の訃報欄に目がいった。

 

(えっ……)

 

人間、本当にショックなことがあると何も考えられず、頭が真っ白になるということを私はこの時初めて知った。

その後、心を失くしたような状態で出勤し、2月3日の通夜の日もまだうつろなまま、仕事を終えてから新幹線に乗って大垣に向かった。
通夜式には間に合わなかったが、お寺でどんとの妹さんが案内して下さりどんとの遺影にまみえることができた。

黒い帽子にGジャン、赤いシャツを着たちょっとはにかむような笑顔のどんとがそこにいた。
そして遺影の前に置かれた、骨覆のかかったどんとの遺骨を見て、それまでずっとこらえていた涙が一気にあふれ出した。

───本当にどんとは死んでしまったのだ。もう会えない。もう声も聞けない。もう二度と。どうしてもっとソロLIVEに行っておかなかったのか。こんなに早く逝ってしまうなら、仕事を放り出して沖縄でもどこでも観に行くべきだったのに…!

“ 骨だけになって でもでも いつも好き 山ほどの愛で ”

この「ひなたぼっこ」の歌詞が心がつぶれるほどに切なく私の頭の中をリフレインしていた。

涙が止まらない私に、桑名晴子さんがアロマキャンドルに火を灯してくれた。
おかげでやっと気を取り直しありがたく拝ませて頂いた後に、どんとの最期に立ち会われた晴子さんに尋ねた。

「教えてもらえますか。最期は…安らかでしたか」

「うん。とっても綺麗だったよ。朝陽と共に、みんなに見守られて、ちーこの腕の中で眠ったままで…」

晴子さんは優しく答えてくれた。

「そうですか…安らかに、幸せなまま、逝けたんですね…。良かった。私の中で彼はいつも笑って、唄って…だから、どうかそのままであって欲しいと思ってたんです。良かった…」

私の言葉に晴子さんはうなずいて、ご自身もまた涙を流しながらも透明な優しい笑顔で答えてくれた。

「…なんだかね、彼が死ぬのを見たら…死ぬことが怖くなくなった」

晴子さんはどんとが亡くなった時に撮った写真を収めたアルバムを「綺麗だから見てあげて」と勧めて下さったけれど、その時私は辛すぎてとても見ることができなかった…




その後、1990年にもお会いしたことがあるどんとのお父様にもご挨拶し、卒論表紙の原画(この記事のTOP画像)と、ボ・ディドリーとのジョイントコンサートでのどんとを描いた絵をお渡しした。

「ああ、これはいい顔をしている」

ご自身も絵がお得意でアート・ブレイキーの肖像画を描いて来日時に渡したこともあられるお父様がこう言って喜んで下さり、どんとの霊前に飾って下さった。

「私はあいつの分まで長生きしますよ」

この時そうおっしゃったお父様も、今は虹の向こうに逝かれたとのこと。父と子でジャズ談議をしているのかもしれない。



京都時代の仲間が多く駆けつけていた通夜から一夜明けて、翌日の告別式は時折雪がちらついていた。
でも焼香が始まる頃になると雲間から光が射してきた。その時なぜか、

「どんとは光になったのかな」

と思った。不思議な気持ちだったが、後でどんとが虹となったというエピソード(さちほさんの著書「虹を見たかい? 突然、愛する人を亡くしたときに」)を知ってやっぱり…と納得した。

祭壇には八木康夫さんが描かれたアルバムジャケット原画などと一緒に、私が描いたどんとの似顔絵2枚も飾られていた。

この絵を描いた時には、まさかどんとの葬儀の祭壇に飾られることになるなんて、思いもしなかったのに…

(中日新聞岐阜県版2000年2月5日)


どんとのお父様が「隆司は花が好きだったので、皆さん今日ここに飾られている花を好きなだけ持って帰って下さい」と言われたが、私は白い花しか選ぶことが出来なかった。

色とりどりの花のほうが彼にはよく似合うと思ったのだけれど、どうしても白い花しか選べなかった。

何かの考えに染まることは危険で、やたら盲従しないことも彼から教わったことだったから、何ものにも染まらぬ白い花であり続けたかったのかもしれない。

どんとさん。

貴方が逝って20年以上経つけど、今もなお貴方の音楽と新たに出会って貴方を愛する人が絶えませんよ。
私のように昔貴方と出会ったことで、自分の人生が変わったという人も何人も知りました。

そして私は今も変わらずに絵を描いて、文章を書いています。
昔貴方が喜んでくれたように、誰かの喜ぶ顔が見たくて。
昔貴方にそうしたように、誰かの心の声を届かせたくて。




「真実なんて、それぞれの心の中にあればいい。
 わざわざ引き出して、事実にはしたくない。
 でも一言、せめて貴方にだけは伝えたい。
 『ありがとう』…と。

 
 五年前にも、同じ言葉を告げたことがあった。

 『ROSAを知って、貴方に逢えて、本当によかった。本当に幸せでした。
  こんなに夢中になって好きになったのは初めてでした。ありがとう』

 その時、貴方はすかさずこう答えてくれた。

 『それは自分が素晴らしかったからや。そこまで好きになれた、
  夢中になれた自分を好きにならなあかん。
  ありがとうは自分に言うべきや』

 貴方のこの言葉を、私は一生忘れない」

(卒業論文『Don’t sing a song~久富隆司論』あとがきより)

(2020年1月27日初出、2024年10月加筆)

【旧サイト掲載時のコメント】

みかこ 様 より

どんとさんて、本当に素敵でチャーミングな方だったんですね!初めてNHK、ロックンロールバンドスタンドでどんとさんをみた時、何だろー?私の心に何か思うところがあって、しばらく病みつきにさせられた人です。早くに亡くなられたのが本当に悔やまれます。。。けれど彼方の世界で好きなように笑って歌ってるんだろーなぁ。。。素敵な論文を拝見してみたい半世紀過ぎた見ず知らずのおばさんより。

HyugaMakoto
(みかこ 様への返信)

コメント頂き誠にありがとうございます!おっしゃる通り、本当に素敵な人でした。頭が良くて優しくて、自虐的なユーモアがまたなんとも(笑)LIVEであんなにも多くの人を熱狂させることができるのに、実はすごくシャイだったり。今もきっと彼方の、京都の川のほとりのようなところでギター弾いたりトランペット吹いたりしながら歌ってるような気がします。論文、昔のことなのでフロッピーディスクのなかにデータがあって私自身も見られないという(笑)いつかデータ変換できたら私も読み返したいです。

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